桜を見ることができる回数
桜を見ることができる回数
無事に、義理兄妹の結婚式に参加して、
自分たちの結婚式以来に会う親族もいて
久しぶりの再会でみんな、笑顔になった。
母の訪問着も着ることができて
母も喜んでくれたし、私自身も小さな?親孝行になったし、
これから自分で着付けができるようになれば着れるしね。
とにかく、お疲れさまでした。

披露宴では、唯一、みんなが大好きだった(私からすると義理の)おばあちゃんが昨年亡くなっていたため、遺影で参加。
伯母さんがおばあちゃんの着物を着ていて胸が締め付けられた。

そして、今回参加してくれているけれども
もう一人の義理のおばあちゃんが(亡くなったおばあちゃんと)同じ病気を
抱えていて、余命あとわずかと言われていて
正直、私はまだ出会って数年だけど
笑顔でうんうんとうなずいて、お話を聞いて
ぎゅっと握られた手をぎゅっと握りかえすだけだった。

地震のこともあり、おばあちゃんのこともあり
桜を夫と見ながら、あすがくることが当たり前で
自分の未来はつながっていると信じて疑うことはなくて
ややもすると、たまに面倒になったり、いやになったりすることもあるけれども
震災や病気は、自分の意志とは全く関係のないところで
すべてが終わる。

切り取られてしまった人生がよかったのか、
悪かったのかそんなことを考える余裕すらもないまま、
旅立たなくてはいけないのか等、考え出すときりがなくて、
答えはちっとも出てこないけれども
もし、仮に私が80代で余命がわずかで・・・とか
震災で今日いきることだけで精いっぱいという状態だったら?とか
桜を見ながら、『生きること』について
ただただ、考えていた。

何度となく繰り返す余震におびえつつ、
家族や仲のよい先生が元気でいてくれることに
安堵する。

死があるから、生があり、
生があるから、死がある。

桜をみるだけで、こんなにも苦しい気持ちになるとは
そして、喜ばしい気持ちになるとは。

私が死ぬ時は、どこでどんな状況だろう。
楽しかったー満足っていってなくなれるのかしら。
こんなにもリアルに自分が死ぬ時を考えたことはなかったけれども
思ったよりも近いのかもしれない。

続きは、秘密日記で。
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